「小豆島に眠る村上水軍の宝」
中世の西瀬戸内海を席巻した村上水軍の財宝が、瀬戸内の島々に埋没しているという伝説は今でも絶えることなく語り続けられている(57番・59番・60番・62番札所参照)。ここ備讃瀬戸の小豆島にもその伝説が残っている。 村上水軍は村上武吉率いる独立的な能島村上氏、安芸の毛利氏の配下で活躍した因島村上氏、伊予の河野氏や秀吉と結んだ来島村上氏の3派にわかれるが、織田信長との戦い、秀吉の四国征伐、海賊禁止令、文禄・慶長の役、関が原の戦いを経るにつれ、少しずつ軍力や権益を削がれ本来の領海から遠ざけられていった。滅亡こそしなかったが「水軍」としては影響力を果たしえなくなったものと思われる。 その村上水軍(主に能島村上)が平常時に、有事の際の埋蔵金保管場所のひとつとして本拠地から少し離れた小豆島を選定したとしても不思議ではない。 「おちょろ」とは、船乗り相手の港の遊女のことであるが、江戸時代の天保年間、広島県豊田郡御手洗の、とあるおちょろが身に着けていた錦のお守り袋から不思議な絵図が出てきたのである。水軍の宝のありかを記したものらしいのだが、地図は極めて曖昧であった。記されている1本の巨杉は土庄町宝生院の真柏ではないかとの推理、土庄町の北岸の屋形崎に残る海賊らしき遺跡や岩に掘られた矢印の存在等々から、土庄の中心にある皇踏山(おうとさん394m)周辺ではないかとの推論が、当時の山師連中の中から出てきたのである。 皇踏山は古代に神功皇后や応神天皇(86番参照)が登った山という言い伝えがあり、山頂からは備讃瀬戸が一望できる。山頂付近には中世の山城と推定される城郭跡が残っているが、はたして何者のものが造ったのかは不明である。山麓といっても周回10km足らずの広範囲に及ぶので実際に特定は困難であろうが、中世のロマンとして語り継いでいきたい伝説のひとつであろう。
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「土庄港から見る皇踏山」
土庄港から見る皇踏山
「皇踏山北側の滝宮からの登山口。この近辺の集落からは古銭も発見されているそうだ。」
皇踏山北側の滝宮からの登山口。この近辺の集落からは古銭も発見されているそうだ。
「北東部の笠ヶ滝から見る皇踏山。岩肌にへばりつく様に建立されているのは笠ヶ瀧寺。」
北東部の笠ヶ滝から見る皇踏山。岩肌にへばりつく様に建立されているのは笠ヶ瀧寺。
「皇踏山山頂付近。中世の城郭跡が残っている。」
皇踏山山頂付近。中世の城郭跡が残っている。
「山の東側にある宝生院の真柏横から見る皇踏山」
山の東側にある宝生院の真柏横から見る皇踏山
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