「坂本龍馬、最期のミステリー」
坂本龍馬といえば、日本人が好きな歴史上の人物ナンバーワンである明治維新の英傑である。その龍馬が海援隊の海運業務のため伊予大洲藩から借り受けて、長崎から大阪に物資を運んでいた「いろは丸」(英国製の蒸気船160トン)が、瀬戸内海の六島と荘内半島の間の海峡で、長崎へ向かっていた紀州藩の軍艦「明光丸」(英国製の蒸気船887トン)と衝突した。時に1867年5月26日23時のことである。トン数の差から、いろは丸は大破し自力走行不能となり、明光丸に曳航されて今の広島県福山市鞆の浦港に向かう途中に宇治島沖で沈没してしまう。 長崎奉行所での賠償交渉で、龍馬はいろは丸がミニエー銃400丁をはじめとする銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、同時に万国公法(当時の国際法の解説書)を持ちだして、紀州藩側の過失として追求した。これは日本で最初の海難審判事故として歴史に有名である。結果、紀州藩は賠償金8万3526両198文を龍馬側に払うことで決着。11月7日に長崎で決済されたが、龍馬はその8日後に京都の近江屋で何者かに暗殺されている。これには龍馬の強引さに遺恨を持った紀州藩士の仕業であるという説もある。 これはこれで龍馬の生涯の中でのひとつのエピソードで終わるのだが、沈没地点の水深は約20m、潮の流れが速いものの、このお宝を周りがいつまでも見過ごすはずもない。1986年、鞆の浦の有志の会が沈没地点の海底ででいろは丸を発見。2006年まで4回の海底調査が行われたが、黄金はもちろん龍馬の主張した銃器類も見つかっていない。 これはいったいなんとしたことか?世の龍馬ファンには申し訳ないが、ひょっとするとこれは日本最古で最大の海難審判詐欺事件であるかもわからない(笑)。日本最大のヒーロー坂本龍馬の顔にむやみに泥は塗れないが、なにせ死後、後世になって世に出た人物だけに本当のところはよくわからない。ああいえばこういう龍馬らしいといえば龍馬らしい交渉ではあるが(笑)。この直後に暗殺されたことも含めてとりあえず日本歴史のミステリーとしておいておこう。
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「庄内半島から見える六島。この海峡は潮の流れが速い。ここで衝突する」
庄内半島から見える六島。この海峡は潮の流れが速い。ここで衝突する
「六島前浦港。岡山県笠岡港から1日4便の定期船で約1時間。横溝正史作「獄門島」の市川崑・石坂浩二版の映画(1977年)の舞台となった島である。そのころとほとんど風景は変わっていない。」
六島前浦港。岡山県笠岡港から1日4便の定期船で約1時間。横溝正史作「獄門島」の市川崑・石坂浩二版の映画(1977年)の舞台となった島である。そのころとほとんど風景は変わっていない。
「島の最高峰大石山展望台から見る荘内半島。このあたりが衝突現場。」
島の最高峰大石山展望台から見る荘内半島。このあたりが衝突現場。
「定期船から見る宇治島。この左沖が沈没地点である。」
定期船から見る宇治島。この左沖が沈没地点である。
「乗船していた龍馬はじめ海援隊隊士が上陸した福山市鞆の浦にある「いろは丸展示館」にて許可を頂いて撮影した地図。」
乗船していた龍馬はじめ海援隊隊士が上陸した福山市鞆の浦にある「いろは丸展示館」にて許可を頂いて撮影した地図。
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