「九州からきた武者の財宝」
大島の北西部に泊という集落がある。16世紀前半の享保の頃、この泊村の重松伊左衛門が屋敷の移築のために弟2人とともに崖を崩していたところ、千両ほどの金の小粒と古文書の入った壷を土中から発見したという。 その文書には「この森内、九州より登りかけ、此島へ上りし時は、家来七人にて小嶋を開き、棲家と致し候ところ、ついに敵にだまし討たれ申し候。森内八左衛門、なにかと始末取り葬り致しくれば、宝物の名剣◯◯、幟旗に巻もの、この三宝は此島より七里南の在家に納まり、金子壱方五千両は壱津の下の土中に有したり。外の千五百両は是上にある南こうねの下の土中にある・・・・。」としたためてあったといわれる。九州より流れて大島に着いた森内某が金子や宝剣を隠し埋めたとの内容であった。小さな村は突如として埋蔵金探しのゴールドラッシュとなり、身代をかけて捜した者まで出たが、ついに発見できなかったとのことである。 文書にある「壱津」、「南こうね」がどこであるかは不明である。ただ大島より7里(約28キロ)の南方には、今の西条市の東予があり、東予港近くの地域が「今在家」という地名である。早速に現地に行ってみた。見渡す限り一面の田園地帯である。新しく開拓された土地なのであろう。今在家という名前から推察するに、300年前には元々の在家がこの近くの何処かにあったのかもわからない。謎は解き明かされず、あたりは夕闇に包まれていた。
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「北から見る泊の集落。静かな漁村である。」
北から見る泊の集落。静かな漁村である。
「背後まで山が迫る泊集落。」
背後まで山が迫る泊集落。
「泊の港より西を望む。森内の一党はこの海を越えてやってきて大島の祖となった。」
泊の港より西を望む。森内の一党はこの海を越えてやってきて大島の祖となった。
「大島南端の名駒から南方向を望む。25キロに先に見えるのは東予港付近である。」
大島南端の名駒から南方向を望む。25キロに先に見えるのは東予港付近である。
「西条市東予の今在家付近。一面に麦畑ばかりが広がる土地である。」
西条市東予の今在家付近。一面に麦畑ばかりが広がる土地である。
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