「重茂山城と隠れキリシタン」
戦国時代末期、四国をほぼ手中に収めた長宗我部元親は織田信長との交渉が難航し織豊政権と敵対関係に入った。本能寺の変の後、徳川家康と結んだ長宗我部元親に対し、豊臣(羽柴)秀吉が、羽柴秀長を阿波方面から、小早川隆景・吉川元長を伊予から、宇喜多秀家を讃岐からと、三方から四国に侵攻させたのがいわゆる「秀吉の四国攻め(四国平定)」である。時に1585年、結果は秀吉側の一方的な勝利に終わり、長宗我部元親は降伏し土佐20万石のみを安堵され、それ以外の三国は秀吉傘下の武将に管理されて、この時より四国は中央政権下に組み敷かれたのである。(53番も参照) この際にこの大西地区にあった重茂山(じゅうもさん)城の城主岡部十郎も小早川隆景に攻め落とされたのである。なお、重茂山城と重門山城(山之内にあったという)の二城が在ったという説もあるが定かではない。 岡部十郎にはひとりの美しい姫がおり、落城の際に「上の城」(重門山城か?)という別の館に乳母とともに避難させたが、途中に萱の中に隠れていたところを被っていた菅笠のために見つけられ自害して果てたという。その後、その場所には姫を弔って祠が建てられ「衣笠の弁天堂」と呼ばれるようになった。 衣笠の弁天堂から南西に700mばかり登ったところに一木という山があり「上の城」と呼ばれていたという。ここに金銀財宝が隠し埋められたという伝説がある。この地方には「朝日あたりの夕篭り白きつつじの咲くもとに九万九千の金がある」が語りつがれており、明治頃に一度発掘しようとした人がいたが、何も見つからなかったということである。 「朝日あたりの夕篭り白きつつじの咲くもとに」の一説はおなじみ埋蔵金の枕詞と財宝にまつわるお約束の樹木であるので、大きな手かがりにはならないであろう。大西のあたりではマリアキリシタンの石像等の隠れキリシタンの跡が数多く発見されており、重茂山(じゅうもさん)は十文字山とも呼ばれている。悲劇のお姫様もキリシタンであったという説もあり、九万九千の金とは隠れキリシタンの宝かも知れず・・・夢だけは果てしなく広がっていく。
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「重茂山(じゅうもさん)294m 山頂は城跡となっている。十文字さんとも呼ばれる。」
重茂山(じゅうもさん)294m 山頂は城跡となっている。十文字さんとも呼ばれる。
「衣笠の弁天堂。隠れキリシタンの名残とも言われている。」
衣笠の弁天堂。隠れキリシタンの名残とも言われている。
「大西から山之内へさらに山奥に入る林道」
大西から山之内へさらに山奥に入る林道
「遠くに来島大橋が見える」
遠くに来島大橋が見える
「この当たりの山が上の城である。」
この当たりの山が上の城である。
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