「海と風と虹と」
宇和島市の沖、1日3便しか船は無く、普通船で2時間、高速艇でも1時間の宇和海に浮かぶ日振島(ひぶりじま)。いわずと知れた平安時代の承平天慶の乱で時の朝廷に反乱を起こし、東国の平将門と呼応するように蜂起して、一時は瀬戸内海全域を支配した藤原純友の本拠地である。朝廷から海賊討伐のために伊予に派遣された官僚であった純友が、いかなる経緯を経て海賊の棟梁となり腐敗にまみれた中央政府に反旗を翻すに至ったかは、海音寺潮五郎の小説「海と風と虹と」や、それを原作とするNHK大河ドラマ(1976年)「風と雲と虹と」で詳しい。東の平将門の乱は2ヶ月で平定されたが、西の藤原純友の反乱は2年もの長きに及び、一時は今の兵庫や大阪にまで勢力を伸ばし、京都の中央官僚の心胆を寒からしめた。その後、検非違使(時の警察軍)によって乱は平定されるが、純友のその後の消息は実のところ不明である。 当然のごとく、瀬戸内海には純友の残した財宝の伝説が散在する。それらの中で、どうあっても見逃せないのは、本拠地であるこの日振島のどこかに宝が眠っているといるという言い伝えである。一説には島の山中ともいわれるが未だに発見されていない。また一説には島の裏側の絶壁(陸路はない)や島沖の岩にある海蝕洞(波で浸食された洞窟)の中に隠されているとも言われているが、いずれにせよ余人の行ける場所ではない。 元々、貴族の出身である純友が率いた天慶の乱は、日本歴史に頻発する勢力間の権力争いから生まれた内乱ではなく、地方の庶民の生活をないがしろにして栄華を極めた京の貴族政治に対する地方からの反乱であった。純友の乱を最期に、日振島は今に至るまで日本の表舞台には登場しなくなる。勝者の歴史にとっては不都合な場所であったのかもしれない。教科書で習う華々しい日本の歴史も、二千年に及ぶ地方地方の名も無き庶民達の長い苦労の上で発展してきたという事実を、過疎で消滅しつつある辺境の島であらためて思いおこされたのである。
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「日振島の中央部の明海(あこ)の港。折からの悪天候で宇和島から5mの波の中を1時間揺られたが、実は前日から食あたりに見舞われており、気分が悪くなっても「出す中味」が既にないので助かった(笑)。」
日振島の中央部の明海(あこ)の港。折からの悪天候で宇和島から5mの波の中を1時間揺られたが、実は前日から食あたりに見舞われており、気分が悪くなっても「出す中味」が既にないので助かった(笑)。
「明海の集落の裏山。この頂上付近に純友公園がある。昔の物見(海上の見張り台)の跡である。」
明海の集落の裏山。この頂上付近に純友公園がある。昔の物見(海上の見張り台)の跡である。
「純友公園に立てられた純友の碑。今から1100年前、純友はここから宇和海と太平洋を見渡して、当時の日本の現状に想いを馳せていたのかも知れない。」
純友公園に立てられた純友の碑。今から1100年前、純友はここから宇和海と太平洋を見渡して、当時の日本の現状に想いを馳せていたのかも知れない。
「明海部落内に今も残る「みなかわの井戸」。当時の見張り台や城のための水源だったという。」
明海部落内に今も残る「みなかわの井戸」。当時の見張り台や城のための水源だったという。
「日振島沖に連絡船から見える海上の岩々」
日振島沖に連絡船から見える海上の岩々
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