「安徳天皇伝説地指定」
安徳天皇擁する平家一門は源氏の追っ手を逃れて仁淀川上流の椿山に安住の土地を求めた(37番)。ところがうっかりと川に流してしまった漆の椀を発見され、下流の奥名川に移ったあと、さらに逃れてたどり着いた土地が別枝地区の「都」という名のこの集落である。名前の由来は言わずもがなであるが、仁淀川を南に渡った山の中も山の中、今でさえこんな所にまで集落があるのかという場所である。なお、この都より奥には「鳥形山」という四国の豪雨地としても有名な名山があるが、ここも安徳天皇の命名(白鳥が片羽で飛ぶ)伝説があり、この山の向こうは安徳天皇四国潜幸説最後にして最大の土地、35番「横倉山(宮内庁指定の御陵参考地)」である。 安徳天皇が潜幸されたといわれている地区ではその地での崩御の伝説がセットになっているところがやたらと多いが、同様にこの「都」にも1195年8月22日にこの地で18歳で崩御されたという詳細な伝承が残されおり、「皇陵塚」といわれる御陵墓も残されている。さらに安徳天皇の従者であった京都山城の国金子城主・平重詮(しげのり)が、源氏から逃れるため山内神助と名前を変えて暮らし、その後、西森姓に改姓した子孫がここをお守りしているという(陵墓の入り口のお家は西森さん)言い伝えもある。また毎年旧暦8月22日には住民によって「都の太鼓踊り」が行われている。同様のものは椿山(37番)にもあるが、双方とも安徳天皇と平家の落武者をなぐさめるものとされており、二つの土地の関連性は高い。 ここは、それらの諸記録や現存する史跡パーツにより、昭和のはじめに「安徳天皇御陵伝説地」の指定を受けているのである。世界なんとか遺産の登録を見ても判るように、参考証拠となるデータがやたらと多いことが、競合相手から頭ひとつ抜け出すノミネートの秘訣である(笑)。まだまだ隠された何かはありそうである。
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「これまでかというほどの山また山の中。」
これまでかというほどの山また山の中。
「安徳天皇御陵墓伝説地」
安徳天皇御陵墓伝説地
「御陵墓隣の「白王八幡宮」。「白王」を縦に書くと「皇」と読める隠し文字である。」
御陵墓隣の「白王八幡宮」。「白王」を縦に書くと「皇」と読める隠し文字である。
「天皇をお守りした平重詮あらため山内神助を祀った都神社の祠。」
天皇をお守りした平重詮あらため山内神助を祀った都神社の祠。
「その山内神助の子孫と牛鬼との伝説に由来する焼野(やけの)権現。がんなどの難病に霊験あらたかといわれる。」
その山内神助の子孫と牛鬼との伝説に由来する焼野(やけの)権現。がんなどの難病に霊験あらたかといわれる。
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