「武田勝頼潜伏説」
「武田埋蔵金」は「徳川埋蔵金」、「豊臣家埋蔵金」等と同じく、日本を代表する埋蔵金伝説のひとつである。場所については様々な説があるが定かではない。 武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼は、1582年に山梨県の天目山で自害し甲斐武田氏は滅亡したとされている。実は自害したのは影武者で勝頼は大崎玄蕃と名を変え土佐に落ち延びたという言い伝えが土佐山中の仁淀川町にある。地元では最近になって有志の会が伝説を掘り起こし町おこしの一環としている。 天目山の戦いで逃げ延びた武田勝頼は、諸国を回った後に土佐の豪族である香宗我部氏を頼って土佐山田に隠れ住み、土地の女性に男子を産ませ末裔の証として金の椀と金の笄(くし)を与えた。その後、今の仁淀川町大崎の場所を治めていた片岡氏を頼み大崎玄蕃と変名してこの地に移り住み、片岡氏の政務を代行しながら1609年に没したとされる。仁淀川町では今でも毎年旧暦8月に玄蕃祭りが開催されている。もし武田勝頼がこの地で余生を過ごしたとなれば、武田埋蔵金の秘密の手がかりがどこかに残されているかもわからない。 この大崎玄蕃なる人物については諸説が残る。別の歴史書では福島正則に仕えた後、紀州の徳川頼宣の家臣となった大崎玄蕃長行なる流浪の武将がいるが、関連性は不明である。また四国には、ここ大崎より20キロ山奥の椿山(37番札所)から安徳天皇を擁する平家落人一行が山を降りるときに戦具を担いで協力した豪のつわものとして、大崎玄蕃の名が残る。17世紀の武田勝頼が13世紀の安徳天皇をお助けしたとは思えないが、この大崎玄蕃、つくづく「潜む」ことが好きな男であったのであろう。
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「仁淀川町大崎の町。仁淀川中流の交通の要所である。」
仁淀川町大崎の町。仁淀川中流の交通の要所である。
「武田伝説を案内する観光ガイド案内所」
武田伝説を案内する観光ガイド案内所
「武田勝頼変名大崎玄蕃の墓所の前に建つとされる鳴玉神社」
武田勝頼変名大崎玄蕃の墓所の前に建つとされる鳴玉神社
「勝頼の嫡男である武田信勝の墓所とされる塚。「甲乱記」によれば勝頼とともに天目山で自害されたとされるが、この地の伝説ではここで亡くなり、末裔はその後、佐川に移り住んだという。」
勝頼の嫡男である武田信勝の墓所とされる塚。「甲乱記」によれば勝頼とともに天目山で自害されたとされるが、この地の伝説ではここで亡くなり、末裔はその後、佐川に移り住んだという。
「大崎八幡宮。勝頼が建てた神社と山城を兼ねたものといわれる。」
大崎八幡宮。勝頼が建てた神社と山城を兼ねたものといわれる。
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