「旅の終わりに」
安徳天皇を擁した平家落人が、屋島を逃れ、三加茂(9番)⇒祖谷(10.12.13番)⇒御在所(24番)⇒本川稲叢山(30番)⇒椿山(37番)⇒別枝都(38番)と、流れ流れてさすらう旅の終わりが、ここ標高793mの横倉山である。永い歴史の中でも特に数奇な運命をたどった第81代安徳天皇の御陵墓として宮内庁が全国で参考地指定した5箇所(他には下関市・鳥取市・対馬・熊本県宇土市)のうちのひとつ(昭和元年に伝説地から参考地に格上げ)である。四国には他に8箇所の御陵墓といわれている場所があるが、グレードはこちらが一番高い(笑)。 安徳天皇とその従者は、ここを安息の地として居を構え、正治2年(1200年)8月8日に23歳の御歳で崩御されたという。平氏の政略(母は平清盛の娘の徳子=後の建礼門院)のために、わずか満1歳で即位され、3種の神器とともに都落ちした後、戦火と逃避行に綴られた一生の中で、最期の数年を安らかにすごせた場所であろう。なお御陵墓の周りには平家の従者80余名の墓も点在している。 天皇崩御の翌月に平知盛が建立したといわれる山頂の横倉宮から馬鹿だめしの断崖絶壁を降りたところに「平家穴」という岩の亀裂の洞穴がある。ここは源氏の追討隊が迫ったときに備えての避難所とされ、実際に明治初期までは刀剣、槍、銅鏡等が多数残されていた一種の隠し部屋である。武具のほかに調度品あるいは軍資金の隠し場所であったのかもわからない。 ここまで、9つの札所で安徳天皇四国潜幸説に従い、御在所跡や御陵墓を巡ってきたが、果たして実際に安徳天皇が下関壇ノ浦に向かわずに四国を潜幸したかどうかの歴史学的確証は見つかっていない。ただ、平家の一団が落人となって四国各地にその身をやつして土着したことは事実であろうと思われる。四国各地の山中に、勝者の歴史の裏に埋もれたもうひとつの歴史があることは、地方に住む我々こそがこれからも語り継いでいくべきでものであると思う。
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「横倉神社に掲示されている安徳天皇四国潜幸のコース。すべてが深山幽谷の中である。」
横倉神社に掲示されている安徳天皇四国潜幸のコース。すべてが深山幽谷の中である。
「安徳天皇御陵参考地 立ち入りは禁制となっている。天皇が蹴鞠(けまり)を楽しんだ跡地でもあり「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」とも称される。」
安徳天皇御陵参考地 立ち入りは禁制となっている。天皇が蹴鞠(けまり)を楽しんだ跡地でもあり「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」とも称される。
「安徳天皇を祀る横倉宮裏手にある80mの目もくらむ石灰岩の断崖絶壁「馬鹿だめし」。敢えてこの先端に足を踏み出すのは馬鹿者しかいないので馬鹿かどうか試せるぞ・・・という謂れのデンジャラスポイントである。しかし現在でも、その謂れを聞いて勝負に出る馬鹿はいっこうに絶えない(笑)。」
安徳天皇を祀る横倉宮裏手にある80mの目もくらむ石灰岩の断崖絶壁「馬鹿だめし」。敢えてこの先端に足を踏み出すのは馬鹿者しかいないので馬鹿かどうか試せるぞ・・・という謂れのデンジャラスポイントである。しかし現在でも、その謂れを聞いて勝負に出る馬鹿はいっこうに絶えない(笑)。
「畝傍山眺望所から見る馬鹿ためし。この断崖絶壁の基底部に「平家穴」がある。」
畝傍山眺望所から見る馬鹿ためし。この断崖絶壁の基底部に「平家穴」がある。
「平家穴の洞穴、はるか頭上80mに馬鹿だめしがある。ここには急峻な崖道をジクザグに下って降りてくる。」
平家穴の洞穴、はるか頭上80mに馬鹿だめしがある。ここには急峻な崖道をジクザグに下って降りてくる。
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