「忘れ去られた埋蔵金」
長い逃避行の果てに横倉山に安住の地を定めた安徳天皇と平家の一行であったが(35番)、その中の従者の一団は山伝いに下郷(しもごう)に降りて山中に隠れ住んだという。彼らはいつの日にか来る平家再興の軍資金を有していたが、それを床鍋に隠そうとして間違えて上分の銭神石の洞窟に埋めたという伝説である。 地図に銭神石なる地名はなく文献にもそれらしい記述がない。上分にて近隣の人や床鍋の地元の老人団体に「銭神石」について聞いて回ったが知る人は皆無であった。途方にくれて四国温泉88箇所の取材に協力してくれた温泉宿で一服していたところ、ご主人がかなり昔にその話を小耳に挟んだことがあるとお人を紹介してくれた。その人を訪ねると山奥のとある家を教えてくれた。そして最終的に判明したのが以下の話である。まったく人と人との御縁は大切にしておくべきとあらためて思った次第である。 「銭神石」とは「ぜにがみいわ」と読み、巨石ではなく、床鍋の「樽の滝」の裏に位置する山塊の中のひとつの峰に対する麓の部落内だけの俗称であったのだ。今から40年ほど前に、この伝説を暖めていたこの部落出身の山師のSという男性が、部落に舞い戻りね部落の空き地に捨てられていた廃バスを住処として、毎朝、1時間ほどの道のりの山に登っては日が暮れるまで洞窟の発掘をしていた。その年月は10年もの期間に及んだという。ところがあるときから姿が見えなくなり、暫くしてくだんの洞窟で一酸化炭素中毒によって亡くなっている骸が発見された。その時の新聞でも「埋蔵金を求めて死亡」というニュースになったそうである。それ以来、銭神石に近づくものはなく、けもの道もすでに消えうせ、地元の人でも登る人はいなくなって久しいということである。道を聞いておそるおそる登ってみたが、地元の人が年に一度だけ祭りをするという大元神社(古い文献によると、古くはこの地で滅んだ平家落人を地元民が祀ったといわれる「平家神社」と一致する)のあたりで道らしきものは消失し、そこから先はマムシの巣であるという注意も事前にされていたので、断念して引き返してきた。この部落からは山に隠れて銭神石は見えないが、山の裏側の横川部落から林道を上がった横川公園から見えるかもしれないということで再アタックして撮影をしてきたが、こちら側かも道はない模様であった。 今回は都合3回も現地を訪れて取材を重ねたが、今までの取材の中でも、伝説とそれに挑む山師についてここまで生々しい話を聞いたのは初めてである。何がそこまで人を駆り立てたのか?夢とロマンの一線を越えた「人間の業」に僅かながら触れた想いである。
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「国道197号線から県道317号線へはいり、さらに「樽の滝」への支道を登る。滝を過ぎて道が果てるところが銭神石への登山口があった集落である。」
国道197号線から県道317号線へはいり、さらに「樽の滝」への支道を登る。滝を過ぎて道が果てるところが銭神石への登山口があった集落である。
「集落(といっても2軒の民家)から銭神石方面を望む。ここからでも銭神石はこの山の右側後方に隠れて見えない。」
集落(といっても2軒の民家)から銭神石方面を望む。ここからでも銭神石はこの山の右側後方に隠れて見えない。
「今は消失した道を10分ほど登ると「大元神社(おそらく地元の文献にある「平家神社」)」の祠が見える。今でも年に一度だけ地元の部落でささやかな祭りを営んでいる。ここから先には道がない。」
今は消失した道を10分ほど登ると「大元神社(おそらく地元の文献にある「平家神社」)」の祠が見える。今でも年に一度だけ地元の部落でささやかな祭りを営んでいる。ここから先には道がない。
「別の山の頂にある横川公園の展望台より須崎方面を望む。はるか向こうに上分の町が見える。目の前に見えている山がおそらく銭神石である。」
別の山の頂にある横川公園の展望台より須崎方面を望む。はるか向こうに上分の町が見える。目の前に見えている山がおそらく銭神石である。
「旧登山口へ集落に向かう途中にある「樽の滝」。滝の隣には住吉神社があり神社前から昔の宝剣が出土している。またこの滝には「平家財神一族八拾末在住郷」なる石碑が建てられている。」
旧登山口へ集落に向かう途中にある「樽の滝」。滝の隣には住吉神社があり神社前から昔の宝剣が出土している。またこの滝には「平家財神一族八拾末在住郷」なる石碑が建てられている。
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