「日本史の表舞台の山?」
高知市の西部の朝倉の南に鵜来巣(うぐるす)という地区がある。ここには30mほどの小高い丘(鵜来巣山)があり、戦国時代には鵜来巣弾正の居城であったとされる。その後、本山氏の城となり、1561年に長宗我部元親に攻められるが、見事に守りきっている。 ところでこの山は斉明天皇の御陵であるとの言い伝えが残っている。斉名天皇は元々は第35代の女帝皇極天皇であったが、時の実権は蘇我蝦夷と入鹿親子が握っていた。親子が大化の改新で中大兄皇子に討たれた直後に孝徳天皇に譲位したが孝徳天皇が若くして崩御したため10年後に斉明天皇として再び即位したのである。日本書紀によると、斉明天皇は、朝鮮半島で百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた際に軍事介入し、自らも軍を率いて難波を出航、伊予の道後を経て「朝倉橘広庭宮」に潜幸し戦いに備えた。いわゆる白村江(はくすきのえ)の戦いである。天皇はこの朝倉宮で崩御されたのであるが、一部では暗殺説もある。 この朝倉宮は一般には福岡県朝倉市にあったとされるが、土佐に残る一部の資料では今の高知市の朝倉神社であるといわれ、その南方の鵜来巣山に御陵墓を設けたとされる。御陵である鵜来巣山は以来、不入(いらず)の山とされたが、なぜ戦国時代に城が建てられたのかは謎である。 この山には「「朝日夕日さす椿の下に黄金千両漆七桶」という埋蔵金伝説が残されている。おなじみ「朝日夕日さす椿の下に」とは埋蔵金の枕詞であり、埋められているとされる「黄金千両と漆七桶」は、はたして斉明天皇に関係するのか?はたまた鵜来巣城の軍資金であるのか?についての記録は一切残されていない。この地域は今では住宅地となり麓には公園や畑が造られているが、鵜来巣山自体はフェンスで囲まれ未だに人を拒んでいる。
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「国立高知病院前から見る鵜来巣山。山というより神社の杜である。」
国立高知病院前から見る鵜来巣山。山というより神社の杜である。
「山の南麓のうぐるす緑地。住宅地の中の公園である。」
山の南麓のうぐるす緑地。住宅地の中の公園である。
「うぐるす緑地脇のけもの道を登るが道は消失している。」
うぐるす緑地脇のけもの道を登るが道は消失している。
「山の北麓の鵜来巣公園から見る鵜来巣山。手前は公民館。」
山の北麓の鵜来巣公園から見る鵜来巣山。手前は公民館。
「朝倉神社。斉明天皇を合祀しているとされる。」
朝倉神社。斉明天皇を合祀しているとされる。
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