「神話から歴史への分岐点」
神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后にして第15代応神天皇(歴史学上初めて実在されたと推定される天皇)の母である。夫亡き後、子を懐妊したまま兵を率いて玄界灘を越え、新羅を攻め百済や高句麗を従えた三韓征討をなした我が国最大の女傑とされる、古事記と日本書紀に記されている人物である。歴史学的には実在説と非実在説とが入り乱れ、その昔は卑弥呼と比せられたり、斉明天皇(27番札所参照)や持統天皇の逸話のモデルではないかともいわれている。神功皇后が戦前まで日本中で広く長く信じられ親しまれていたことは、明治時代の政府紙幣や切手の肖像に用いられたことや、その勇猛果敢さが国定教科書に取り上げられていたことからも伺い知ることができる。 その神功皇后が三韓征討の帰路、前線基地である筑紫の国(福岡県)から畿内への交通を用いたのが瀬戸内海路であり、それ故、瀬戸内沿岸と島々(香川県では直島、多度津、女木島、小豆島等々)には、その名残とされる言い伝えが数多く残されている。 小豆島の北西に突き出た蕪崎(かぶらざき)も、ここで暴風にあった皇后の船団が着船して海を鎮めるために神楽(かぐら)を舞ったという言い伝えから「かぐら」⇒「かぶら」と呼ばれるようになったという。幕末の嘉永年間、この蕪崎から古代の鏡が発掘された。これこそ神功皇后の神器であろうということで、これを埋めなおして神鏡塚として奉ったという。 小豆島にはこの他にも神功皇后の足跡とされる場所があり、それらの遺構から日本の歴史に関する重大な物品が発掘されるかもしれない。
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「土庄町にある宝生院境内の真柏(しんぱく)。高さ20m根回り16mのイブキの巨木である。三韓征討中に神功皇后が産んだ応神天皇のお手植えとされる。」
土庄町にある宝生院境内の真柏(しんぱく)。高さ20m根回り16mのイブキの巨木である。三韓征討中に神功皇后が産んだ応神天皇のお手植えとされる。
「土庄町四海の海岸から見る蕪崎。瀬戸内海に突き出た突起である。」
土庄町四海の海岸から見る蕪崎。瀬戸内海に突き出た突起である。
「蕪崎の岬部分。島が砂州で結ばれている。」
蕪崎の岬部分。島が砂州で結ばれている。
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