「荘内半島の豪族」
中世の讃岐に海崎(みさき)氏という豪族がいた。彼らは今の三野町辺りを起源とし、元々は橘姓を称していたとされる。今の荘内半島の筥御崎(はこみさき 今の地名で詫間町箱)を領地としたことから海崎氏と改名しその地の海崎城を居城としていた。更に室町時代初期の四国における戦いで幕府軍の細川頼之に付き従って南朝側を攻め、その戦功として讃岐の中南部に領土を与えられ、長尾氏と改名して西長尾城(77番札所)に移ったのである。その海崎氏改め長尾氏が戦国時代に土佐からの長宗我部氏に攻められて敗北したときに、元の居城であった海崎城に軍資金を隠し埋蔵したという伝説が残っている。その場所は城内の井戸であるとされる。 海崎城は荘内半島の箱(はこ)部落と紫雲出山(しうでやま)との中間にある小高い山の頂にあり、今では城跡どころか跡形も残されていない。紫雲出山から箱部落へ続く登山道に近い遊歩道を1時間弱で城跡に着く。城跡といっても城壁跡らしきものも何も残っていない丘であり上部へは道らしきものも無いので藪コギをしながら分け入ると、僅かな面積の平坦地に出る。おそらくここが城跡になるのであるが、なにしろ城があったのは14世紀であり、井戸はおろか人工のものらしき名残の痕跡も残っていない。 ここで活動していた頃の海崎氏は、その記録にも乏しく、これからの研究に期待するべき謎多き城である。
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「荘内半島の三崎より紫雲出山(標高352m)を望む。手前の山の頂付近が海崎城である。」
荘内半島の三崎より紫雲出山(標高352m)を望む。手前の山の頂付近が海崎城である。
「海崎城のあった場所(山頂付近)の近景。紫雲出山から箱部落への遊歩道の途中にある。」
海崎城のあった場所(山頂付近)の近景。紫雲出山から箱部落への遊歩道の途中にある。
「「新田の城跡」=海崎城である。この後ろの丘が城跡である。」
「新田の城跡」=海崎城である。この後ろの丘が城跡である。
「無理やり分け入ると少し平らな地点がある。おそらくこのあたりであるが、荒れ果てて700年。もう井戸の跡らしきものは見つからない。」
無理やり分け入ると少し平らな地点がある。おそらくこのあたりであるが、荒れ果てて700年。もう井戸の跡らしきものは見つからない。
「紫雲出山の案内板。この中の新田の城跡が海崎城にあたると思われる。」
紫雲出山の案内板。この中の新田の城跡が海崎城にあたると思われる。
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