「島に流れたキリシタン大名」
戸島は日振島同様に宇和海に浮かぶ小島である。 戦国時代、応仁の乱の難を逃れるために京都関白職より、領地であった土佐幡多荘中村に下向して戦国大名となった土佐一条家であったが、4代目領主の兼定の時に土佐長岡の豪族であった長宗我部氏より侵略を受けた。同時期に内部で起こった謀略によって兼定も土佐を追放され、舅親である豊後(大分県)のキリシタン大名大友宗麟を頼った。その間をついた長宗我部元親に領地の要である中村までも占領されてしまう。彼は豊後でキリスト教に入信しドン・パウロの洗礼名を受け、大友家より援軍をえて、十字の旗頭のもと九州から再び中村に攻め入ったのである。キリシタン大名一条兼定の誕生である。 しかし天下分け目の渡川(四万十川の旧名)の合戦で敗れた兼定は、長宗我部に脅された地元豪族達の寝返りにもあって四面楚歌となり、やむなく漁船に乗って臣下費50余名とともに伊予の戸島へ落ちのびたのである。戸島でも復讐の念を諦めきれず、ひそかに中村の国元へ使者を出し一門の家臣等や南予の諸将達と連絡し策を練ったで兼定であったが、この動きを耳にした長宗我部元親は、兼定の側近者を唆して暗殺を企てた。兼定は刺客の太刀で左肘を打ち落とされながらもこれを撃退し、その8年後に一条家最期の一人として数奇な一生を閉じるまで戸島で深い信仰生活を送ったという。 500年を経た今でも戸島の島民は、兼定公を想い、祠を建てて世話をしている。長宗我部側の歴史を綴った文献では愚将として記されているが、負けて島に流れてもなお旧臣や周辺の諸将の人望を集めていたこと、亡くなっても今に至るまでなお幡多地方の住民に愛されてきたことなどを考えると、実際にはひとかどの人物であったことが伺いしることができる。今のところ、再興のための武具や軍資金の発見はないが、これほどハードな人生の中、これほどの将であるからには、何処かになにかを秘蔵していたものと思われる。
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「戸島本浦港。この島は1949年におこった「宇和ねずみ騒動」の起点となった島である。温暖でイリコ等の食物が豊富、しかも孤島で天敵がいないことで鼠が大量発生して15年ほど被害が続いた。様々な対策の中、最も効果的だったのは蛇200匹、いたち150匹、猫4000匹(北宇和郡総計)を野に放った作戦であったという(笑)。」
戸島本浦港。この島は1949年におこった「宇和ねずみ騒動」の起点となった島である。温暖でイリコ等の食物が豊富、しかも孤島で天敵がいないことで鼠が大量発生して15年ほど被害が続いた。様々な対策の中、最も効果的だったのは蛇200匹、いたち150匹、猫4000匹(北宇和郡総計)を野に放った作戦であったという(笑)。
「戸島本浦の待合場の時刻表。朝7時についたが12時まで船は来ない。日曜日なので人っ子ひとりいない。島内には自動販売機一機以外にお店もない。4時間ほど瞑想するしかない(笑)。」
戸島本浦の待合場の時刻表。朝7時についたが12時まで船は来ない。日曜日なので人っ子ひとりいない。島内には自動販売機一機以外にお店もない。4時間ほど瞑想するしかない(笑)。
「墓所のある戸島龍集寺。」
墓所のある戸島龍集寺。
「キリシタン葬を望んで果たせなかった兼定のため、昭和の時代に島民達が自ら祠を建てて墓石を移したという。」
キリシタン葬を望んで果たせなかった兼定のため、昭和の時代に島民達が自ら祠を建てて墓石を移したという。
「祠のなかに祀られている兼定公の墓石。」
祠のなかに祀られている兼定公の墓石。
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