「もうひとつの安徳天皇伝説」
足摺岬から1時間弱の大川内(大河内)には、安徳天皇四国潜幸説とはルートがはずれたまったく別の天皇御陵墓伝承地がある。潜幸説での安徳帝は屋島の戦いから逃れて四国山中を彷徨ったのだが、こちらの帝は山口県下関の壇ノ浦で入水せずに海路で四国の南東部に逃げたのびたという。同じ様な伝説が愛媛県八幡浜市(46番47番48番)にもあるので、いわば第二の潜幸説といえよう。 壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武士8人は、幼い帝を守り海上を7日間漂って足摺岬の東岸の下ノ加江に流れ着き、8人の武者は諸方に別れて再挙を謀ることとなる。天皇は藤原兼重、大塚弾正の2名に守護さられて大川内(王ノ内) に入り、ここを安住の地と定めた。兼重は京都から妻子を呼び寄せ娘を天皇の妃とした。天皇は15歳で崩御されこの地に葬られたが、子孫は三原村に降りて代々農を営み今田村の姓を名乗ったという。御陵墓伝承地は苔むした墓であり、以前、誰かが掘り起こし今は空墓であるということだ。 下ノ加江から県道21号線を下ノ加江川沿いに遡り4キロ程で大川内の部落である。河内神社があるということは平家落人と関連性が深いということである。少し歩くと、厳格に祀られたお地蔵様等々、他ではあまり見かけないスピリチュアルなものが散見されるが、安徳帝と直接の関わりは無いようだ。丁度通りかかった部落の方から、ある家のご主人がそれに詳しいと教えて頂き、早速に訪ねる。ご主人は昔、家に大昔の刀や鎧を所蔵していて、家の土壁から塗りこめられた小判が出たこともあったという。この家の川を挟んだ対岸の丘に陵墓らしきものがあり、時々、学者らしい一団が訪ねてくるということ。案内人がつかねば道がないと聞き、高知県が水浸しになった集中豪雨の前日で、おりから少なからず雨が強まってきたので、ここで打ち止めとなった。四国にはまだまだ表に出ていない平家落人伝説が密かに存在する。
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「高知県交通の「大河内バス停」。バス停跡か?」
高知県交通の「大河内バス停」。バス停跡か?
「河内神社の鳥居。一説に、全国にある「河内神社」は平家落人が祀ったものとされる。」
河内神社の鳥居。一説に、全国にある「河内神社」は平家落人が祀ったものとされる。
「道端の地蔵様。」
道端の地蔵様。
「大川内の部落。前方の山に御陵墓があるとのこと。」
大川内の部落。前方の山に御陵墓があるとのこと。
「このあたりであるが明確な道は無い。」
このあたりであるが明確な道は無い。
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