「消え行く村に残る伝説」
「椿山(つばやま)」は仁淀川の支流土居川のそのまた支流の椿山川の源流の村である。田舎の高知県内でも田舎と呼ばれる仁淀川町。その役場から車でも1時間半はたっぷりかかる。山を越えると有名な安居渓谷であるが、越えるといっても地元の人でも躊躇するけもの道しかない。どこからも閉ざされた隠れ里のような山里である。車道はここから軽トラかバイクでないと入れないダート林道に変わってやがて行き止まりとなる。ただ、この山里、人は年配の方が3人ほどしか残っていないが民家は百戸ほどある。一昔前までは子供も多く結構と賑わっていたということであるが、世代交代につれ、みんな潮が引くように高知市内や県外に移っていったとのことである。祖谷でも別子でもご老人から同じような話を聞いたが、人は引き出したらいなくなるのはあっという間であるとのこと。地方の中核都市といえどもゆめゆめ覚悟しておかれよ。 安徳天皇潜幸説によると、天皇の一行は、祖谷から韮山(24番)を経た後、今の早明浦ダム付近の宮古野(旧名は都野)、稲叢山(30番)、大川町の越裏門を順々と逃げ延びてこの椿山に至ったということである。椿山には、この里は安徳天皇潜幸の際に家来である平家の滝川軸乃進の一族が拓いたという伝説が残っている。村の中央の広場にある氏仏(うじほとけ)堂では、毎年の虫送りの時期の夜に、安徳幼帝の子守歌として、また平家の武将の霊を慰める祭りとして、古式にのっとり「太鼓踊り」(旧池川町無形文化財指定)が催される。この踊り手も今では村を出てあちこちの「町」に散らばってしまい。果たしていつまで伝えられるかわからない。過去もいくたの地方地方の歴史と土地土地の文化と口伝えの伝承とが日本から消えていったのであろうか。まさにその現実を目のあたりにする場所である。 安徳帝の名残を紋章等残すこの氏仏堂には「開かずの箱」が奉納されているという。箱を開けるにはお堂自体を解体しないと開かないという仕組みになっているらしい。果たして中には何が納められているのであろうか。その答えは、この村が遺跡になったときに出るのであろう。
|
「四国きっての消滅寸前集落。標高600mの斜面に家と畑が張り付いている。もちろん村内は車も自転車も通れない。家から家へは基本的に畑の縁を歩くしかない。また昭和の末まで県下最後の焼畑農業をしていた村でもあるが、今は焼畑しようにも人もいなくなってしまった。」
四国きっての消滅寸前集落。標高600mの斜面に家と畑が張り付いている。もちろん村内は車も自転車も通れない。家から家へは基本的に畑の縁を歩くしかない。また昭和の末まで県下最後の焼畑農業をしていた村でもあるが、今は焼畑しようにも人もいなくなってしまった。
「集落の中心の檜の広場に建つ氏仏堂。太鼓踊り等の行事のときだけ町から旧住人が戻ってきて世話をする。」
集落の中心の檜の広場に建つ氏仏堂。太鼓踊り等の行事のときだけ町から旧住人が戻ってきて世話をする。
「堂の脇に祀られる滝川軸乃進の祠。椿山の開祖となったとされる平家の落人である。」
堂の脇に祀られる滝川軸乃進の祠。椿山の開祖となったとされる平家の落人である。
「集落からさらに林道を上ると道はどんどん細くなる。あと1キロもいけば愛媛県との分水嶺。一行はこのあたりを越えてきたと思われる。」
集落からさらに林道を上ると道はどんどん細くなる。あと1キロもいけば愛媛県との分水嶺。一行はこのあたりを越えてきたと思われる。
「椿山集落から向かいの山肌に見える「五色の滝」。見事な滝であるが人が到達できる道はないようである。」
椿山集落から向かいの山肌に見える「五色の滝」。見事な滝であるが人が到達できる道はないようである。
|