「大衆の崇めるもの」
神社なのになぜか仏教の僧侶が祭神という勝負事の神様である。 当社に祀られている薫的和尚(1625年〜1671年)は、当時、ここ洞ケ島の禅宗曹洞宗瑞應寺の住職であった。瑞應寺は土佐の戦国大名であった長宗我部家の菩提寺であり土佐藩一の大寺であった。ところが長宗我部氏は滅ぼされ、徳川幕府の世になって代わって山内氏が土佐藩主として入洛し、ここから幕末にまで至る旧長宗我部関係者vs新興の山内家支配階級の因縁が始まったのである。旧長宗我部家の菩提寺である瑞應寺と新藩主山内家の菩提寺として新造られた真如寺も事あるごとに対立を深め、とうとう時の権力者の卑怯な謀略により薫的和尚は投獄されてしまう。7年間の獄の中でも和尚は諦めず、自らの血で経文を書いたり断食を断行したりして身をもって無実の罪を抗議した。そして最期には、藩主の居る高知城を睨みつけ自ら舌を噛み切って憤死したとのことである。それからというもの、和尚に罪を着せた奉行は「家の庭で坊主がこちらを睨めつけている」との言葉を残し狂乱死。其の末代に至るまで変死して一家断絶。内通した僧侶も発狂して死亡。子供も変死。あげくは山内家重臣の家族の夢枕に和尚が立って「山内に7代祟る」と訴える等の騒ぎとなり、慌てて神社を建立して和尚の魂を鎮めたという。 17番の徳島県お松大明神や菅原道真公の天神様にもみるように、古来より大衆は、時の権力に立ち向かい正義を訴え非業の死を遂げた者に対して、最期まで信念を諦めない生き様を敬い、勝負事の神様として崇めている。 今でもこの「薫的さん」はスポーツや受験等の勝負事の神様として、地元の信仰を集めている。
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「高知市の市街地の中に鎮座する立派な神社である。」
高知市の市街地の中に鎮座する立派な神社である。
「鳥居の社号は高知ゆかりの戦後の名総理大臣である吉田茂の書である。」
鳥居の社号は高知ゆかりの戦後の名総理大臣である吉田茂の書である。
「拝殿裏の岩の上には薫的和尚の遺骨が祭られている。」
拝殿裏の岩の上には薫的和尚の遺骨が祭られている。
「薫的和尚が投獄されながらも無実を訴えた獄舎跡が境内に移設されている。」
薫的和尚が投獄されながらも無実を訴えた獄舎跡が境内に移設されている。
「霊験あらたかな勝守。」
霊験あらたかな勝守。
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